9月の個展に向けて、今回は絵を描こうかと考えています。
ここ最近は、旋盤でお皿を成形したものに象嵌のように漆を埋め込んだりして絵を描き、
食器として制作はしているのですが、
これは「絵」とも見える木の器。
今回は「器」にもなる絵を描こうかと考えています。
一個人の見解ですが、今は、ものの表現方法やそれをカテゴライズするものが曖昧であまり物質的にジャンル分けするようなことを意味のないものとして捉えられている傾向があり、だからこそ、コンセプチュアルなものを大事にする傾向があるような気がします。
徒弟制度や、地場産業などにも革新的な新しいものを求められるようになり、こうすればああなるという予定調和的なものつくりの時代は過ぎ、個々の考え、より一人一人のものの考え方を、つくるものの背景にのせて、それをも、ものの一つの要素として表現とし、そういうものを乗せて循環させていかないとそのものも循環していかない傾向があるように思えます。
伝えたいものがあるとして、それをどうやって伝えていくか。それも一つの大事な要素だと思いますが、向こうに伝えようとするものが、それを使うお皿として捉えるとき、私の場合は、個人的な思いと同時に多方に向けていこうという意識が起きます。
ものに対価を払って買ってもらう以上、当たり前のことなのですが、それを何枚も何枚もと重ねるうちに、いまのところ全て一人でやっている分、どうも、こう、拙いながらも技術や、小手先のものに走ろうとする感じになるのがよくない。見つけた初めてのよろこびや、発見したときの浮き上がる感じは、その一時しかなく、確実にそれは人に伝わるということはわかってきたのですが、それを数多に続けてやっていこうとするにはあまりに無理があるような気がしてなりません。
作り続けることがなにかずっと加え続けることのような気がして、でも、ものが出来上がる要素として必要なことは必ず引くものだと思っています。加えて加えてたくさんやってきたからいいものが出来上がるとは限らない。加えて引いて、丁度快いところに「表現」というものが見えてきます。でも、引こうと考えて引いた瞬間にそれは意識的に「加える」ということになります。
その矛盾に常に作り手は悩み、苦しむのかもしれない。
誰がどう見ようとかあまり考えず、
また、そんなことを考えながら、絵が描けたらと思います。
あぁ。偉そうに語ったけど、どうなることやらだ。
まずはキャンバスから
ガサゴソと過去のものを探ってたら、
昔描いた絵のようなものを発掘。
ぐるぐる螺旋のようにモノをつくっております。