2023年10月3日火曜日

ぽっ


 大きい器を再び(というか5たびくらい)つくっています。

大きい作品をつくってると、つくりながら頭の中で次の過程を辿っているからか、つくる上での観念みたいなものがぽっと浮かんできたりします。

今回は、「汚れみたいなものは【綺麗】の基準があってはじめてなりうるもの」でした。

いつも、やりたい表現や目論みみたいなものを考えながら制作していて、でも、やりたいと思っていたものと違い、ギャップやうまくいかないことも多く、その中でもそれを失敗とだけ捉えず、そこから面白いところが必ずひそんでいて、そのとっかかりを広げてよく表現のひとつにしています。思っていたものが結果、汚れたようなものになってしまたりしても、そこに枠組みをつくるとテクスチャのひとつになって、逆に特徴的なものになったりもします。

でも、その「汚れ」とか、「失敗」とかそういうもの自体がそれぞれの概念として捉えられていて、例えば、それを別の人から見れば魅力とか肯定的な面で捉えられたりすることも結構あり、

昨今のニュースひとつとっても、本来は多面的な要素があるにも関わらず、何が本意でなにが真実かをひとつの世の中の共通認識として捉えようとする流れがある気がして、(おそらく、私も含めて納得することで生活する上での常識上の安心感を得たいのだと思うのだけど)


話が逸れましたが、そのあたりの基準みたいなものは自分ではブレないようにと心に留めていても、周りの雰囲気だったり、時流などで知らず知らずに変わっていってるんだろうなぁと思いました。

もしかしたら、あまりにも「綺麗」とか、「整っている」ものみたいに照準を合わせすぎると、なにが本来したかったこととか、発見して喜べるものとかを知らず知らずに見逃しているのかもしれないなぁと思った次第です。

どちらかというと、綺麗だとかそういうものよりも、「ワクワクするもの」とか「ゾワゾワするもの」の方にできるだけ自分の目みたいなものを向けていきたいなぁと思いました。

なんだかわたしの目指すものはオノマトペぽくなるなぁ


とかなんとか



おわり